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信じる心と、信じる相手

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この天地は滅びます。しかし私の言葉は決して滅びることがありません。

マタイによる福音書24:35

私たちのよく知っていることわざに「いわしの頭も信心から」というのがありますね。これは節分の季節にいわしの頭を串に刺し、ひいらぎの枝といっしょに戸口にさした昔の風習から来たもので、信じる心さえあれば、たとえいわしの頭のようなつまらぬものでさえ有難くなるという意味だそうです。これは、まさに私たち日本人の信仰心というものの姿を良く現していると言えます。そこで大切なのは信じる「心」であって、信じる「相手」は何でも良いのです。

さて、「信じる」とは、本来どういう事なのでしょうか。「信」という字は「人」と「言」が並んで出来ています。その意味するところは相手の言葉を信じ、その言葉を通して、相手の「人格」を信じることだと言われます。ですから、木や石で作った「もの言わぬ神や仏」に手を合わせ、いくら信心だからとはいえ、相手のことはお構いなしに、こんなに熱心にやっているのだから、どんなことを頼んでもきっと私のためにやってくれるはずだと一方的に思いこむのは、いささか身勝手というものでしょう。多くの人の言う信心とは、結局この思い込みに過ぎないのではないでしょうか。

そうです。本当の信仰は、私たちが「誰を」信じるのか、ということから始まらねばならないのです。かって私たちが信じるイエス・キリストは、「この天地が滅びても、私の言葉は決して滅びない。」と言われました。元来、人間の言葉というものは当てにならないものですね。「舌の根の乾かぬうちに・・・」などとよく言いますが、自分の言葉に責任を持とうとしない人は大勢います。あなたはそんな人を信用されるでしょうか。勿論、信用なさらないでしょう。

でも知ってください。世の中がどんなに変わろうとも、自分の言葉に最後まで責任を持つと仰る方がここにおられるのです。言葉は人格をあらわします。決して裏切ることのない真実な言葉を語られるこのお方こそ、単なる人間以上の存在である神の子イエス・キリスト、そのお方なのです。そしてこのようなお方こそ、私たちが本当に信じ、仰ぐ相手として、もっともふさわしいお方と言えるのです。いかがでしょう。この不確かな世の中にあって何よりも確かなこのお方こそ、私たちが全幅の信頼を置くことが出来るただひとりの救い主なのです。

鈴木栄一牧師

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