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「紫のつゆ草」(“業(ごう)”のなせる業(わざ))

<日本にいる姉の図書館>

私の家族は、5人兄弟・姉妹ですが、二番目の姉を除いて、皆アメリカに移住しています。それで、日本に行く時は、いつも妻の両親が残してくれた家に住まわせてもらっているのですが、日本に残っている姉のところにも訪ねています。

その姉の家の二階のトイレを私は“図書館”と呼んでいますが、いつもいろんな本が雑多に積まれています。今回訪ねたら、図書がかなり整理されていて、今までの3分の1ぐらいになっていましたが、この一冊に目がとまりました。

<「紫のつゆ草」養老静江>

この書の著者、養老静江女史は、あのベストセラー「バカの壁」という本を書かれた(解剖学者)養老孟司のお母様です。とても読みやすい本で、90歳を越えて、ますますご健勝な静江女史の思い出が書かれています。

私が注目したのは、静江さんの夫、文雄さんの遺言でした。静江さんは、「“夫は、結核で2年も病床にいながら、決して暗い顔をする人ではありませんでした。笑顔を見せながら「僕は良い人間だから、早く逝く、君はわがままな人間だから、なかなか死ぬことは出来ないよ。それを[業]というんだ。立派な仕事を持っているし、君なら大丈夫と信じている。子供たちを頼むよ。」”という言葉を残して、この世を去りました。」と書かれています。

<“業(ごう)”という言葉>

静江さんは、帝大出の青年弁護士に求婚されて退職し、二児を儲けますが、ある日、夫の仕事を手伝う養老文雄に強く惹かれている自分に気付き、十歳も年下の彼との恋を貫いたという女医です。当時の女性としたら、破格の人生、己の幸せを追い求めたという人でした。

そんな静江さんに、今にも息を引き取ろうとする夫が、「僕は、良い人間だから早く逝く、君は、わがままだからなかなか死ねない。それを“業(ごう)”と言うんだ。立派な仕事を持っているし、君なら大丈夫と信じている。子供たちをたのむよ。」と言い残されたというのです。

それは、あたかも、“君は強欲だから”という意味にもとれる言葉ですが、彼女の生きざまを称賛しているようにも読めます。静江さんは、自分の心のままに生き抜いた、数少ない日本女性です。

つまり、我儘で強欲で、自分の意思を貫いてきた静江さんは、“やすらかには死ねないよ”と言われたのでした。好き勝手なことしてきたんだから、多少苦しんでも仕方がない。それだけの報いを受けるべきだ、というわけです。

この“業”(ごう)という言葉は、仏教用語で、サンスクリプトのカルマにあたり、(良きにしろ、悪しきにしろ)自分が以前行ったことの報いを後で受けるという意味ですが、自分の行いの良し悪しによって、良い報い悪い報いを受けるという考えは、とても理屈にあう考え方で、納得できます。

<“業(ごう)”でなく“恵”に生きる>

一方、キリストの教えは、そういう業(ごう)的な因果関係ではないのです。逆に、そういう過去の犯した罪の報いから自由になって、神さまの恵みに生きることができるのだ、というのです。

ヨハネによる福音書9章を読みますと、「9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。 9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」 9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。 9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」

この癒された盲人は、光を得て、物を見ることができるようになりました。でも、それ以上に、彼の心に“神の業”があらわれたのでした。イエスを嫌った、当時の支配者たち(律法学者やパリサイ派の人たち)は、自分を癒してくれたイエスが神さまから遣わされたお方だと主張する、このもと乞食を会堂から追い出してしまいます。彼は、村八分になりました。もう乞食もできない、生きて行くすべがなくなってしまったのです。

「“9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」 9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」 9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」 9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。 9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

ロバート・イー


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