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ザ・証し:0.18%という数字の意味:田中啓介牧師

僕の実家は、観光ガイドに載っているような飛騨高山にある古いお寺で、日本在住当時、僕の環境下においてキリスト教色は一切なかった。だが渡米して間もない頃、アルバイト先で一緒に働いていたクリスチャンの男性から誘われたのがきっかけで、教会へ足を運ぶようになった。

この男性が、今日本で開拓牧師をやっている僕とNCM2の隊長さんのマキ氏と同じくNCM2のマダムこと、由利さんを繋ぐ共通の人物で、彼等とは25年以上の古い付合いである。

元来僕は理屈っぽい性格で、感情やその場の雰囲気などに流されるタイプではない。自分の理屈に合わないことは、それから先に進めない性格なのである。結果的に教会に足を運ぶようになってから洗礼を受けるまで10年、受洗してから献身するまで10年。そして今年からトーレンスで小さな開拓教会を始めた。

物事を判断するには大きく2通りある。ある一つの価値観を前提に、それと照らし合わせながら、それが真理であるか否かを判断する演繹法。もう一つは、世の中にある様々な現象や状況結果から、一つの共通の真理を導き出す帰納法。僕にとっての問題は、教会での牧師の説教やキリスト教関連の本等が、聖書を前提とした演繹法的解釈でしかなかったことである。

聖書にこう書いてあるから正しい! それは聖書に書いていないから間違っている! このような解釈法は聖書の権威どころか、聖書とは何ぞや?と言うことさえ理解出来ていない者に納得出来るはずがない。僕にとってイエス・キリストの十字架は、長い間対岸の出来事であった。

しかし、それでも福音に対する感心が僕の中から消えることはなく、教会とは付かず離れずという生活が暫く続いた。ところがある日、ローマ書1章20節の御言葉が私の目の中に入って来たのである。『目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。』

ここで神様は自然をよく観察すれば、私の存在は知ることが出来ると言っている。それで僕はもしキリスト教が本当であるなら、それを証明出来る何らかの物的根拠があるはずだ。ならばそれを調べてみようと、帰納法による聖書解釈を試みたのである。

そうして僕は「何故ユダヤの民族宗教が普遍的事実であり得るのか?」、「何故イエスは死ななければならなかったのか?」等、聖書に記してある記述が、まごうことなき事実であるということを、帰納法によって理解していった。

そして僕にとって信仰の第2ステップとなったのが、第2コリントの1章21節『世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。』という御言葉であった。

ギブ&テイクの価値体系が骨身の髄まで染み込んでいる私達にとって、「行いではなく、ただ信じることによって救われる」と言う福音の核となる「信仰義認」の価値観は、到底受け入れられることではなく、一般の人々からすれば、信じるだけで救われるなどとは実に愚かな話である。

だが、それは神様自身がいみじくも言っておられる。それは「愚かな方法」であると。しかし、一見理不尽にも思えるこの方法が、実に神様の大いなる愛と知恵の賜物であること、そしてこの方法でなければ、人を救うことが出来ないということが、私は知識と共に魂で知ることが出来たのである。

どうどう廻りした僕の結論は、結局方程式のような人間による論証法によって、神様の存在を証明することは不可能だということであった。何故なら神様は証明の対象ではなく、信仰の対象だからである。この真理を聖霊によって示され、今から12年前の1991年11月、この教会で洗礼を授けていただいた。

僕は妻との離婚問題や、教団教派に対する不信感等でこの教会を離れることになったが、神様はこのような逆境をもプラスに転じて下さり、僕が当時通っていた教会の牧師先生から、実に熱心に神学を勧められ、神学校へ行くことになった。それが献身のきっかけとなり、今に至っている。

神様は何故僕のような者を、伝道師として用いようとされたのか? 用いなければならなかったのか? 神様は収穫の時を急いでおられる。特に日本という国に対して、心を痛めておられるのである。そのことを後半、皆さんにお伝えしたいと思う。

世界には約24,000以上の民族が住んでいるが、その中には未だ60近い「Unreachd People」が存在する。彼等は数えるくらいしかいない小数民族、共産圏、そしてイスラム教国である。しかし、そのどれにも該当しない国が2つある。それがイスラエルと日本である。

日本には教会もあり、キリスト教系の学校も沢山あり、多くの若者達は教会で結婚式を挙げたがっている。福音を伝えてもありがたがられはしないが、かと言って警察に捕まることはない。これだけ思想や表現の自由な日本が、何故「Unreachd」なのだろうか?

現在全国にあるプロテスタント教会と伝道所の数は約7,500、平均会員数30人として換算したクリスチャン人口は約22-23万人。12,600万人中23万人は、全体の0.18%である。現在1年で約200の教会や伝道所が新しく誕生しているが、同時に約300の教会が閉鎖されている。

一時海外からの宣教師達の働きによって、日本のクリスチャン人口が飛躍的に延びた時代もあった。しかし、今世界の宣教団体は日本に宣教師をほとんど送っていない。何故なら日本に1人宣教師を派遣するお金で、東南アジアやアフリカなら5人派遣出来るからである。

日本にある教団の多くが、何故か教会数より教職者の数の方が多いという、世界でも例のない独特な組織体系を持っている。例えば日本ホーリネス教団の場合、161の教会数に対する教職者の数が370名。もし、献金が実際の伝道よりも、教会の組織運営の方に使われているとしたら、それは大きな問題であろう。

日本のクリスチャン寿命は約3年半と言われている。洗礼を受けても、そのまま教会に残る人は5人に1人しかいないのである。つまり、日本のクリスチャン 0.18%から更に減少の傾向にある。「Unreachd People」・・これが日本のクリスチャンの実情である。

「1千万人救霊!」というスローガンは、日本人クリスチャンの間で、既に50年以上提唱され続けている。だが私達は0.18%という数字の意味を分っているのだろうか? 全体から見てその存在を確認し得る最低数値は全体の3%である。

私達がイエス・キリストの福音を日本人が認知可能な最低レベルの数まで引き上げるには、現在のクリスチャン人口が今の10倍になっ
ても、まだおぼつかない。これ等の現実を考える時、戦後推奨された一千万人救霊活動が、如何に人間業では不可能であるのかが分る。

「人には出来ないが、神には出来る。」それは100%アーメンであり、それ以上何も言うことはない。だが、このような難しい日本の現状に対し、人間側としては何が出来るのか? 何をしなければならないのか? それ等を私達は熟考し、実行する義務がある。

真理の掴む方法が2通りあるように、マーケティングのアプローチにも2種類ある。それは、良いものをつくりさえすれば人は買ってくれるだろうという「Product-Out」方式と、どうしたら人は買ってくれるだろうかという「Product-In」方式である。

長い間、日本における伝道論は、神様の御言葉を伝えた後は本人の責任であると考えてきた。つまり、ある意味において日本の教会の伝道アプローチは、ほとんどProduct-Outの売り手市場なのである。

今までのこの方式から、どうしたら人は福音を聞くだろうか? このProduct -In方式に転換させることが今の日本には必要ではないかと僕は考えている。いずれにせよ、結果が減少している以上、今までと同じやり方ではダメなのは明白な事実なのである。

社会、家族、自然からさえも疎外されている日本の若者達。彼等の最大の目標は、自分の器量や技能を使って、最大限の利益を得ようと必死になっている。つまり自分自身を商品化し、それを如何に高い値で売るかということに奔走しているのである。

人生は競売競争しかなく、この価格の公平さ以外に倫理はない。だが、人も、商品も、有効期限が過ぎれば捨てられるのである。効率が愛を上回り、体裁が本音を覆い隠す。消費以外に満足を得ることが出来ない…。

孤独、焦燥、閉塞感…30分に1人が自らの命を絶っている世界で一番自殺者の多い国。それが神様の存在を見失っている日本人の実態である。そのような四面楚歌の状況から脱出出来る唯一の方法を知っているのは、我々クリスチャンだけである。私達はそのことを知っていながら、何故か手を拱いてはいないだろうか?

人は皆、癒されたいという願いを持っている。人は本当の救いを求めているのである。もし、日本にある教会が今にも自分の命を絶とうとしている人達にその答えのヒントでも提示出来ていないとするならば、それは実に重大な問題である!! それは私達クリスチャンの責任でもあるのだ。

アメリカの地でキリスト者となって22年、確かに僕は日本宣教の必要性について重荷を持っていた。だが僕は同時に自分が宣教に一番必要な「愛」に溢れた人間でもないことも知っていた。

三浦綾子という人は24歳のうら若き頃から、77歳で召天されるまで、あらゆる病気にさいなまれ続けてきた人である。「自分の病気が治った!アーメンハレルヤ!!」と言うのは当たり前。だが、人生の真理はもっと深い部分にある。

彼女はかつてあるTV番組で自分の病気についてこのように語っていた。「こんなに多くの病気にかかって、神様は自分を“えこひいき”しているのではないかと思います」と。TVの視聴者達がこの発言をどのように解釈したのかは分からない。ただ言えることは、彼女は病気というハンディを、明らかに「恵み」として受け取っていたということである。

「癒されたら栄光があるのではない!その人が癒されても癒されなくても、私の存在自体に既に神の栄光が表されている。」僕は彼女のこの言葉を聞いて福音の奥深さ、神様の素晴らしさ、そして人間の存在価値の尊さを改めて教えられた思いがした。

ヘンリー・ハーレイという神学者が、このような言葉を残している。「この地上に生きるあらゆる人々に要請されている最も重大な決断は、イエス・キリストに対する態度を、心の底からはっきりと決めることである。一切のことが、そのことにかかっている。」と。

皆さん、同じ主にある兄弟姉妹として、感謝と喜びを持って、人生への究極の答を、一人でも多くの人々に伝えよう!互いに足らない部分を補い合い、神様から私達に与えられた使命を、悔いのないよう思いっきり果そうではないか! 皆さんのお祈りに感謝します。

田中啓介 牧師

Comments / Trackbacks

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  1. 藤本三奈子

    田中啓介牧師の「ザ・証し」を拝読させて頂きました。 
    私はJEMS日語部でコーディネーターとしての働きをさせて頂いておりますが、全米の日系教会の住所録を新しく作成しております。 2010年の投稿記事ですが、トーランスで開拓教会を始めれたということですが、教会についての情報をお持ちのようでしたら、お知らせ頂けますでしょうか。
    お手数をおかけ致しますが、よろしくお願い致します。

    藤本三奈子

  2. 藤本三奈子

    早速のお知らせをありがとうございました。

    藤本

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