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歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか・・

私たちNCM2の活動の中には、チャーターメンバーのひとり、ミチコ・ヒルがリーダーを務める”Amen Choir”(Shepherd Hills Church)のボランティア活動があります。

数週間前に、パコイマにある日系リタイアメント施設を訪問しました。この施設にはこれまで何回か訪問しているので、皆さん、楽しみに待っていて下さいました。

いつも賛美慰問の時は、英語のゴスペルソングばかり歌うのですが、日系人の高齢者施設と言う事で、一曲だけ日本の唱歌”カナリア(歌を忘れたカナリヤ)”を歌う事になりました。カナリアはNCM2のアルバム、”My Japanese Heart” の中でも歌っている曲で、この日もNCM2バージョンで歌いました。


歌を忘れたカナリヤ (Kanary) – NCM2 CHOIR
歌い始めたら、聴衆の皆さんが一斉に歌い出し、皆さんにはとても懐かしい曲だった事がわかりました。ミチコがリハーサルの時に、この曲の内容をメンバーに説明した時、悲しい歌なのだけれど、希望がある歌なのだと話してくれました。

唱歌”カナリア(歌を忘れたカナリヤ)”をグーグルで調べてみると、下記のように書かれてありました。

「父の急死や兄の放蕩などによって財産を失った家族を支えるために株や商売などを始め、詩の創作を中断していた八十. ー中略ー「かなりや」の詞の背景には、子供の頃に麹町のある教会に連れて行かれたクリスマスの体験がある。会堂の中で、自分の真上にある電灯が1つだけ消えていたのを見た八十は、「ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥」である「唄を忘れたかなりや」のような印象を受けたという。」

作詞者の西條八十がこの曲をどのような状況やどんな思いで書いたかを憶う事が出来ました。歌は誰かのところへ飛んでいき、その人それぞれの思いで受けとめ広がっていくものですね。

懐かしい歌(曲)を聴くと、あの頃の自分が蘇り、楽しくなったり、胸がキュンとしたり、ちょっと苦しくなったりする経験があったりします。その曲がある時の自分の世界とつながっているような気がいたします。以前の私はこの「歌を忘れたカナリア」を歌うとなぜかとても悲しくなりました。

でもクリスチャンになってからは、後半の歌詞にイエス様の愛と福音を見るようになり、ミチコが私たちに語っていたように、悲しい歌が希望の歌になりました。

「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」番人は答えていった。「ご主人、どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」ルカ13:7-9

私たちにとって忘れた歌とはなんだったのでしょう?その歌を思い出す事が出来たでしょうか? 

神様の目から見たら、捨てられてしまうような私のようなものでも、「象牙の船と銀の櫂で月夜の海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す」から、とりなして下さるイエス様がいて、忘れていた歌を思い出す時がきっと来るんだよ。だから諦めたり絶望したりしないで、忍耐して待ち望んでいれば、必ず良い日がやって来る・・。その時はどんなに嬉しいでしょうね。

マダム


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