生か死かそれが問題だ・・

路傍の十字架
路傍の十字架

<生か死か>

最近、身近に癌になった人、癌を克服した人の話を聞くことが多くなりました。それで、なんだか、癌の人が増えているように思えるのだけど、それは、私だけなのでしょうか?癌は2人のひとりだというのだけど、普通、どういう訳か、癌など自分とは関係がないと思ってしまいます。そして、自分が癌だと知らされる時、はじめて“死”の現実にさらされるようです。

“生か死かそれが問題だ”というのは、あのシェークスピアの「ハムレット」の一節ですが、このセリフに続く独白は、読者をうならせるものであったように思い出します。ただ、それは、実に、観念的で、形而上学的なものだったように覚えています。平凡に生きている私たちの素朴な感覚とはほど遠いものです。

<癌=死>

癌というと“死”ですが、癌の価値は、その死にあります。癌というのは異常細胞ですね。人の身体には、無数の細胞があって、正常な細胞は、自分の死ぬサイクルに従って死ぬ(自殺)のだそうですが、癌という異常細胞は、その司令塔である“DNA”がおかしくなってしまって、いつまでも死なずに、やたら細胞分裂して大きくなってしまうんです。

<闘病>

首にゴルフ玉のような出来物(癌)ができて、すさまじい抗がん剤と放射線と手術で生き延びたKさんに闘病の話を聞きました。扁平上皮癌という癌の4期(末期)で、絶望的な状態でした。その癌を克服するのに6年かかり、2年間は眞に死ぬ思いをされた方です。身体は、あのアウシュヴィッツのユダヤ人たちのように骨と皮になり、痛くて座れないという状態だったそうです。

Kさんは、入院して、過酷なキモ(化学療法)とRadiation(放射線療法)で癌を縮小し、縮小したその癌を手術で切り取ったのでした。そして、その苦しみの真っただ中で、神さまの臨在と神のご介入をはっきりと感じたとのことでした。“こんなことは、2度としたくないけど、これは私にとって、何にもかえがたい、貴重な体験でした”とKさんは話してくれました。

<山上の垂訓>

主イエスの山上の垂訓のなかでも超有名なところは、「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(マタイ6章25)なのですが、日本のキリスト教会の人たちほど何を食べたら健康にいいという話が好きな人たちはいないみたいです。

その27節に「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」ということも書かれているのに、何かを食べたらいいという話ばかりしています。実際に野菜ジュースで何年も癌を抑えているという方もおられますし、近代医学は、現実に癌患者の命を長らえさせているではないかという方もおられます。たしかに、癌の治療方法は、日進月歩です。しかし、そういう状況をも含めて、私たちの寿命はまっとうされるのです。

たとえ、野菜ジュースを飲み、進んだ近代医学でその命を数日、数か月、数十年伸ばしたところで、永遠の命から比べたら、誤差のうちです。

<セコンド・チャンスの人生>

Kさんは、あの苦しい治療期間中に、何度も死んだのかも知れません。もうダメだと思いながら治療していたんですから。彼の先生もKさんが生き延びると思っていなかったかも知れません。ダメかも知れないけど、これしかないということをされたのに違いありません。そして、もう一度生かされた今、Kさんは、そのセコンド・チャンスの人生を(過去を振り返りながら)生きているように思われました。

「6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」

ロバート・イー
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