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イチジクの実をみるとイエスさまがこの木を呪ったのを思いだします。

<イジジク>

イチジクという木、また、その実は、「無花果」と書きますが、花が咲かないで実がなるという意味だそうです。でも実は、その花は実のなかのつぶつぶなのだそうで、どうして、そのようになるのか、植物の知識のない私には、まったく理解ができません。

<聖書の最初に出てくる最初の果物の名前>。

「3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3章7節)

<イエスさまの呪いの言葉>

新約聖書、マルコによる福音書11章12~14節を読みますと、イエスさまは、お腹をすかせていました。その時、(季節はずれだったのに)葉っぱを茂らせている無花果の木が見えたのです。それで、何か食べられるものがないか、実がついていないだろうかと近づいてみたら、何もなかった。それで、イエスさまが「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言うと、その翌日に、その木は、根元からかれてしまっていたのでした。

イエスさまは、たしかに空腹だった。弟子たちも同様に空腹だったでしょう。それでも、弟子たちは、時季外れに葉っぱを茂らしていたイチジクの木に実があるか見に行こうとはしませんでしたし、実がなかったからといって呪うということも考えなかったと思います。だから、これは、弟子たちにとってびっくりする出来事でしたし、理解に苦しむことでした。その驚きが行間に読み取れます。

<イエスさまは、何故そんなに怒られたのでしょうか?>

この疑問を解くカギは、“季節外れ”という言葉だと思います。季節外れに葉っぱを茂らせ、あたかも実がなっているように見えた。それは、本当に実がなっているかも知れないと思わせるほどの木だったのです。非常に巧妙な“見せかけ”ともいえるものでした。単に、空腹で“何かありはしないか”と期待したのに、その期待がはずれたというのではないのです。

<イエスさまが一番に嫌われること=偽善>

福音書でイエスさまが怒られる(顔色を変え、怒鳴りつける)時は、たいてい自分の正しさを振り回す、パリサイ派の人々または律法学者と言われる人たちに向かってであり、その偽善性についてです。

マルコの福音書では、イエスさまがイチジクの木を呪われた日に、いわゆる“宮きよめ”という事件(?)も起こします。神殿で過ぎ越しの祭りのために集まってきた人々に商売をしていた人々をムチをもって追い出したのです。『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」と叫ばれたのでした。

“偽善”とは、“善”を装うということです。勿論、本人は、正しいと信じているわけですし、それが神さまの意思だと確信しているのです。でも、それが、本当に神さまの意思なの?とイエスさまは、問うているのです。

これらの出来事は、イエスさまがエルサレムに入場して十字架にかかる4日前の出来事です。かのパリサイ派の人々や律法学者、神殿の祭司たちがイエスを捕らえ殺そうともくろんでいる、そういう時なのです。イエスさまは、わざわざそういう敵のわなにかかっていくのです。(ここのところは、弟子たちがどうしても理解できなかったところでした。私たちにもわかりにくいところです。)

自ら十字架の道を進んで行くイエスさまは、この(見せかけの)イチジクの木を見た時、ユダヤの宗教家の“偽善”をそこに重ねあわせたようです。

<偽善は悪より始末に負えない>

偽善は悪より始末に負えないのです。なぜなら、自分の不純性に気がつかないだけではなく、自分は善人だと“確信”しているからです。悪人は、自分が善人だとは思っていません。自分がしたことは悪いことだと認識しています。でも、偽善者は、あくまでも自分の正しさを主張するだけです。もし、誰かがその不純性を指摘するなら、みんなそうだと一般化するか、そういうあなたはどうなんだと怒りだすだけです。

結局は、自己正当化なんですね。でも、そういうことで、私の過ちや咎が消えますか?消えません。どこかに行って、何か苦行でもすれば、“癒されますか?”(嫌な言葉、不純な言葉だけど)“癒されません”。

<自分の過去を踏みなおしてくださるイエスさま>

渡辺善太先生の書「わかってわからないキリスト教」の中に、“イエスさまに自分の過去を踏みなおしてもらう”ということが書かれていますが、そういう過程を通って、正直な自分を取り戻す必要があります。もう、自己弁護しない、自己擁護しないでいいんです。はずかしい自分、かなしい自分が“本当の”自分なんですから。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9章12,13)

ロバート・イー


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